翻訳と辞書
Words near each other
・ 相良藩願成寺駅
・ 相良観音
・ 相良郵便局
・ 相良長唯
・ 相良長在
・ 相良長定
・ 相良長寛
・ 相良長毎
・ 相良長氏
・ 相良長泰
相良長泰 (島津家臣)
・ 相良長泰 (肥後相良氏)
・ 相良長為
・ 相良長祗
・ 相良長福
・ 相良長継
・ 相良長続
・ 相良長興
・ 相良長誠
・ 相良長輔


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

相良長泰 (島津家臣) : ミニ英和和英辞書
相良長泰 (島津家臣)[さがら ながやす]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [そう]
 【名詞】 1. aspect 2. phase 3. countenance
: [りょう]
 【名詞】 1. good 
: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 
: [たい]
 【名詞】 1. Thailand  
: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 
家臣 : [かしん]
 【名詞】 1. vassal 2. retainer

相良長泰 (島津家臣) : ウィキペディア日本語版
相良長泰 (島津家臣)[さがら ながやす]

相良 長泰(さがら ながやす、天文5年(1536年) - 寛永6年5月25日1629年7月15日))は戦国時代から江戸時代薩摩国島津氏家臣。元の名は稲留長辰。通称は新助、新右衛門尉。入道名は閑栖斎。官位は日向守。父は稲留伝翁。妻は伊地知重康の娘。子は相良頼豊相良新吉、娘(島津忠恒側室)。
祖は肥後国相良氏で、相良氏の祖である相良長頼の五男・稲留頼貞の子孫である稲留善助が、島津忠国に仕えて以降、代々島津家臣となっていた。長泰の代まで稲留姓であったが、島津義久の使者として相良義陽の元へ赴いた際、義陽の許可を得て以後、相良姓を名乗る様になった。
天正10年(1582年)から八代へ在番、有馬氏への使者を務めるなどし、日向国紙屋の地頭及び、財部(日向国、大隅国の何れかは不明)の地頭となった。その後は島津義弘に従い、合志城攻めや高森城攻めに参加し功を為した。また、筑紫城攻め、岩屋城攻めの際も副将としてこれに参戦している。
朝鮮の役が始まると、長泰は木脇祐辰と共に船奉行を務め、庄内の乱にも参陣する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は長泰は大坂に在り、実窓院(義弘夫人)と亀寿(忠恒夫人)を薩摩へと逃す為、於松という侍女を亀寿の身替りとする謀事の際、平田増宗の指示により長泰は、吉田清孝上原尚張新納孫右衛門と共に、於松を大坂屋敷へ送り込む役目を果たした。その後、関ヶ原より退去してきた義弘らと合流、日向国細島に着くと、伊東氏家臣の稲津重政の軍が居た為、須木から義弘を出迎えるべく現れた村尾重侯の軍勢と共に、これを討ち払った。
慶長6年(1629年)に死去。その死に際して、島津家久(忠恒)より追悼の和歌が詠まれている。
==参考文献==

*『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「相良長泰 (島津家臣)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.